カトリック仙台教区 人権を考える委員会

神は愛なり (1)

私が今考えてみると間接的ではあるが、カトリックと出会ったのは、昭和十四年の末、まだ小学生だったが、担任の先生から『これはカトリックのデルエン神父さまから、クリスマスのお祝いだと言って届けられたものです』と、生徒一人に一本ずつの新しい鉛筆が渡された。まだ学用品も不足がちな時代でもあったので、とても嬉しく感じたのを覚えている。

 その鉛筆は消しゴム付きで洒落ていて、金色の文字で「神は愛なり」と聖句が書かれていた。

 その聖句が何時の間にか私の脳裏に、刻み込まれる程のエンパクトがあったと見えて、七十六年経た今でも忘れられないのである。

 第二回目の出会いは終戦の前日に、小見さんという信者さんが、腸チフスを病んで、一般の療舎とはかなり離れた、誰も行かない野菜畑の隅の小さな隔離病棟で亡くなったとき、私は火葬係りの作業を命じられて、遺体を引き取りに行った処、小野神父さまが予防着も着ずマスクもしないで、小見さんの遺体を懇ろに仰向かせ、終油の秘跡を授けられて、死者のために長い祈りを捧げるお姿を側で見ていて、いたく感動したのであった。

(松丘教会信徒会長八十九歳)
(文章は原文のママ)

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神は愛なり (2)

戦争は終ったもののB二九の空襲で、壊滅的な損害を受けた青森市にありながら、建物の損壊だけは免れたわが保養園では、電気、水道がストップしたままで、食料や医薬品の配給もままならず、六百名もの患者は悲惨な生活に追い込まれていた。殊にいちばん重症の患者が、収容されている病棟の看護作業に、就いていた私の両の手指に麻痺が進んで、働く事が出来なくなり昭和二十一年の秋に、働かなくとも良い不自由者の住む部屋に、転室させて貰った。そこで聖霊のお導きによるものか、カトリックの信者として、戦後只一人だけ生き残っていた、大橋四郎さんと同室になるのである。大橋さんとは出身が福島という事もあり、同郷のよしみで、殊に親切にして頂いた。

今まで重症の患者の世話に明け暮れていて、麻痺に侵されたわが手を見るにつけ、私もやがてあの人達のような立場に、置かれる事は目に見えており、人生に全く絶望していた私は、両足が義足でその上両手も、ほとんどの指を失いながら、底抜けに明るく振る舞う大橋さんに、不思議なものを見るように感じてはいた。窓際の小さな本立てに、大橋さんの聖書や公教要理などの本があり、読み物に飢えていた時でもあり、私はそれを読むことによって、初めて信仰に目覚めてゆくのである。

大橋さんからは一言も入信を勧められた訳でもないのに、何時の間にか彼に従って、月に一度だけお出になる小野神父のお話しを、聴きに行くようになり、遂に、終戦の前日に隔離病棟で、お会いしたあの小野神父から、イグナチオの霊名を頂いて、洗礼のお恵みに浴することになって、私は新しい人生に踏み出したのであった。

(松丘教会信徒会長89歳)
(文章は原文のママ)

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神は愛なり (3)

 キリスト教は“敵国の宗教”ということで、神父の療養所への出入りも、何かと制約の多かった戦時中とは違い、私が洗礼を受けた頃は、だいぶ制約が解かれ、小野神父様も魚が水を得たように、波打から新城までの汽車の便、または自転車で十二粁の道を、走ってお出になり、布教に専念できるようになった。戦時中は療舎の玄関先で、ご聖体を授けていたのが、面会室も使えるようになった。畳み敷きでおよそ二十畳ほどの面会室には、いつも五十人からの聴衆が、小野神父様のお話しを、聴きに集る盛況ぶりとなった。

 その頃丁度期を同じくて、私も若い仲間たちと、患者自治会の旧体制を打破して、新しい体制を造ろうとして、走り回っていた時でもあり、その同じ仲間達に呼び掛けたのと、小野神父様の軽妙な対話ぶりに、人気が集り、時間の過ぎるのも忘れるほどで、その頃相前後して結婚した妻の知子は、熱心な仏教信者であったが、改宗して洗礼を受けて呉れたことが、私にとって何よりの喜びであった。

 先輩の大橋さん夫妻の人柄にも影響されて、その周囲の人々の受洗者が増え、患者自治会には、固有の宗教団体『カトリック研究会』として公認して貰い、大橋さんを会長にして組織化されたのは、昭和二十三年で、「丘の星」という謄写版づりの会報を、毎月園内に配布したりして、教勢を高めていった。翌二十四年、青森県はカナダのケベック外国宣教会が、担当することになり、邦人司祭の小野神父様は、宮城県の築館教会へ移られたのである。

(文章は原文のママ)

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神は愛なり (4)

 青森の本町教会に、本部を置いたケベック宣教会は、ベレー帽子にマドロスパイプが、良く似合うレフェベル神父様が、馴れない日本語ながら、いつもにこやかな笑顔で、私達に接てくれた。ミサの前には必ず公教要理の勉強会があり、段々と信者も増えてきて、団体名を「愛徳会」に改めるまでになった。特に小林有方司教さまのお勧めで「レジオマリエ」も結成、その会長も大橋さん、副が私で妻の知子が書記という陣容で、そうした組織的な布教活動の甲斐あって、盲人信者だけの「オジリア会」や「フランシスコ第三会」も誕生したのであった。

 カナダの神父様達は、母国に募金を呼びかけて、私達のために、昭和三十二年には聖堂を、そして同三十九年には伝導館を建てて下さった。

 そればかりか、近くの三内の教会墓地には、私達だけの共同墓碑も建てさせて頂いた。これらはすべて、カナダの恩人方の愛の賜物であり、私達は整った環境の中での、信仰生活を送るお恵みを頂いている。

 戦前からの信者を含めて、既に九十四名の兄弟姉妹が洗礼の秘蹟を受け、永遠の眠りに就いているが、残された私達は、高齢化が進むままに、隔週毎のおミサの挙行も儘ならなくなり、十数年まえから市内の本町、波打両教会の信徒の皆さんの、典礼奉仕によって、支えられているのが現状で、私達はこの両教会の皆様の献身的なご支援に、雪深い冬の季節のなかでも、心暖まる思いで教会に足を運んでいる。

(松丘教会信徒会長・九十歳)
(文章は原文のママ)

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「カトリック松丘教会の昔と今」

2015.8カ障連札幌大会報告

滝田 十和男

 私たちの「カトリック松丘教会」は、青森市の西端部にあたる丘陵地帯を占める、国立ハンセン病療養所「松丘保養園」の中にある教会です。
 高々と空に輝く十字架を掲げた聖堂と、それに並んだ伝道館の建物は、みどり濃い松や杉の森を背にして、療養所でもひときわ目を魅く存在です。
 現在のカトリック信者は、男一名、女八名あわせて九名の信者が、聖日のおミサに与っております。いずれも九十歳前後の信者ばかりです。
 いまハンセン病と呼ばれていますが、昔は「らい病」と言われて、世間から大変嫌われ、患者ばかりでなくその家族も差別されて、悲惨な歴史を重ねてきましたが、戦後「プロミン」という特効薬があらわれて、不治の病いと言われた事がウソのように、治る病気となりました。

 現在療養所に入所して居る患者は皆、神経が麻痺した手や足の後遺症があるため、社会復帰ができない人たちで、他人に伝染するような菌は無くなっております。ですから、教会の信者も老齢化がすすんできている現状です。

 私たちの松丘教会は、昭和六(1931)年カナダ・ドミニコ会のベルトラン・デルエン神父が布教を始められ、病気に苦しむ患者に物心両面に亘り、援助の手を差し延べて、幾らかの信者が増えつつあったとき、アメリカとの戦争が始まり、米英の敵性国人としてデルエン神父ら聖職者たちは、すぐに祖国に強制送還されてしまいました。  そのあとを引き継いだ邦人司祭たちの働きで、青森県の教会は守られましたが、当時の軍国的な国粋主義がはびこり、キリスト教は敵性国の宗教だからという、迫害もひどくなり布教は進みませんでした。

 しかし戦後いちはやく昭和二十四(1949)年に、青森県の全区域をカナダ・ケベック宣教会が担当するようになり、療養所にもフランシス・レフウベル神父らの積極的な布教活動が展開され、洗礼を受ける人たちが現われても、定まった集会所を持たない信者のために、昭和三十二(1957)年待望のカトリック聖堂を建てて下さいました。これもみなケベック宣教会が、病める信者のために母国カナダに聖堂建設の募金を呼びかけての“愛”の賜物でありました。

 私たち信者はそれに応えて、聖マリアの兵隊として布教活動に励む「レジオ・マリエ」の組織化や、盲人信者の会の結成、フランシスコ第三会支部などで布教活動に専念した成果が現われて、一時は六十二名にも及ぶ信者が増え、五十坪近い聖堂内も、おミサの時は狭く感じる程の盛会ぶりでした。

 ケベック宣教会は、療養所の近くの市営三内霊園に隣接した土地を購入して、市内信者のために「三内カトリック墓地」を造営した際、その一画を提供されました。私たち松丘教会の信者が帰天しても、ふるさとに帰ることが出来ない人が多く居りましたので、私たちだけの共同の墓碑を造らせて頂きました。今では既に七十七名の僚友信者の霊魂が、安らかに眠っております。

 療養所入所者の高齢化が進むと同時に、カトリック信者も高齢度を増してゆきます。冒頭のところで、松丘教会信徒の年齢がすでに九十歳前後に達していることに触れましたが、教会全体の運営の面で、またおミサの典礼すべてに亘って、私たちは青森市内の「本町教会」「浪打教会」の二つの教会の健常者の献身的な応援を頂いて、つつがなく聖務を果たして参ったことは、十三ヶ所ある全国の(国立)ハンセン病療養所の教会の中でも、松丘教会は特に密度の濃い応援を頂いているのではないかと、感謝の思いを深くしております。

 その一例として、今回付き添いとして同行されましたカテキスタ白川順子さんは毎朝自宅から一キロ余の峠道を徒歩で、聖堂までの朝の祈りを欠かしません。おミサの聖歌の伴奏もご自分のオルガンを提供してくれています。

 また聖堂内外の掃除や、クリスマスには厩の幼子のご誕生の飾りつけや、おミサの時の祭壇には、毎回季節折々の生花を活けてくださる人達もおられます。松丘教会のおミサは、毎月第二土曜日と第四土曜日の二回だけお捧げしておりますが、おミサの後では必ず、毎回健常者の皆さんとご一緒に食卓を囲んで、茶話会を開いて、ひとときを過ごすのも楽しいものです。

 松丘教会の現状は以上のような状況で、健常者の支援体制が整っておりますが、何せ超高齢者ばかりの集いのため、今後この状態がそのまま続くとは考えられません。私たちは、その事に心を痛めております。

 療養所の首脳は、教会の施設建物を将来的には「文化保存地区」として残してゆきたいという意向を示しており期待は持っておりますが、すべては主キリストの良き導きに、おまかせして、残された人生を精いっぱい生き抜くことこそ、私たちハンセン病回復者であるカトリック信者に、課せられた使命ではないかと思っているところです。
 最後に、このたびのカトリック身障者札幌大会が、参加された皆さんの生きる力に、更に救い主イエス・キリストの祝福が輝きますように。以上。

※括弧内は委員会補足。

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「松丘教会の歩み」(1)

松丘教会の歩みは、カトリックの神山復生病院で受洗した山本謙太郎氏が1931(昭和六)年、青森の国立ハンセン病療養所松丘保養園に転入の後、浜町教会(現在の本町教会)に連絡し、主任司祭でカナダ・ドミニコ会のベルトラン・デルエン神父が布教したときに始まります。

デルエン神父は、ハンセン病が当時「らい病」と言われ世間から大変嫌われ、患者だけでなくその家族も差別される中、療養所に通い、病気に苦しむ患者に物心両面に亘り援助の手を差し延べました。

幾らかの信者が増えつつあったとき、日米戦争が始まり、敵性国人として強制送還されてしまいました。小野忠亮神父、児山六七男神父、平塚秀雄神父ら邦人司祭の働きで教会は守られましたが、キリスト教は敵性国の宗教という迫害もひどくなり布教は進みませんでした。

戦後1949(昭和二十四)年に青森県はカナダ・ケベック宣教会の担当となり、療養所にもフランシス・レフウベル神父らの積極的な布教活動が展開され、唯一生き残った信者大橋四郎氏の質朴な人徳もあり友人知己から洗礼を受ける人たちが現われ、大橋氏を初代会長とした「松丘カトリック愛徳会」が結成されました。

定まった集会所を持たず、バラック寮舎の玄関の土間でミサを捧げ、洗面所で告解を聴くなど、集まる場所にも苦労している信者のために、1957(昭和三十二)年、ケベック宣教会は母国カナダに募金を呼びかけて待望のカトリック聖堂を建て、小林司教司式で献堂式が行われました。

 信者もそれに応えて「レジオ・マリエ」「盲人信者の会」「フランシスコ第三会支部」を結成し布教活動に専念、一時は信者数六十二名にも及び、五十坪近い聖堂内もミサの時は狭く感じる程の盛会ぶりに、1963(昭和三八)年、二代会長米塚尚司氏の時に、主任司祭ポリュー神父の尽力で伝道館が建設されました。

参考:滝田十和男「カトリック松丘教会の昔と今」、小野忠亮「青森県とカトリック」

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「松丘教会の歩み」(2)

 松丘の信者は、伝道館の建設にあわせ、ルルドを自主的な奉仕作業でつくりました。聖母像は信者の原寅雄氏が夫人の失明の回復を希って寄進、洞窟に安置し程なくして夫人の片目が見えるようになったそうです。信仰生活では、レジオ・マリエ、オヂリア会、フランシスコ第三会を3本柱としていました。

レジオ・マリエは1954(昭和29)年5月、小林仙台司教が来訪し信徒の布教活動の必要性を話され、数名が応じ始まりました。未信者である友人達を教会へ誘うことから始め、盲人への読書、病人の看病、パンフレットの配布、遠ざかっている信者の訪問などの働きを行い、1960(昭和35)年に集会第300回記念、1982(昭和57)年には集会1,350回を迎えました。

オジリア会は盲人信者が1964(昭和39)年12月13日聖オヂリアの祝日に会員26名で発会式を挙げました。盲人の聖人オヂリアの苦難の生涯と聖徳を学び模範とし、その御保護も願って盲人同志が互いに扶け合って頑張ってゆこう、病苦と祈りを捧げて信仰を強め合おうと、毎月1回の定例祈祷会を行い恩人のために祈ること、家庭訪問と病棟見舞をすること、晴眼者の協力で週2回の読書会と聖歌練習をすること、互いに親睦を深めるため野外集会を催すほかに随時集会を持つなどの活動を行い、祈りの集団として信仰の中心的役割を果たしていました。

フランシスコ第三会は1964(昭和39)年10月、本田守男先生の勧めにより10名の志願者が集まり、ボリュー神父の指導を受けつつ1965(昭和40)年1月10日に着衣式(男子3名、女子8名)が行われ、1966(昭和41)年1月13日に小林仙台司教より第三会の正式認可を受け、松丘兄弟会(クララ会)として正会員の誓約を果たしました。毎月第一水曜日の定例集会でフランシスコの信仰と模範について研究を深め、清貧と忍耐そして平和の精神を養うよう励み、日常は病人の見舞い、欠席者の訪問、教会墓地の清掃、盲人会員への朗読などの奉仕を行っていました。

参考:「丘の星 宣教50・献堂25周年記念誌」松丘カトリック教会(1982(昭和57)年)

 

在家フランシスコ会員

民謡歌合戦

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「松丘教会の歩み」(3)

隔離政策の被害は本人だけではなく家族に対する差別偏見に及びました。家族が身内から患者を出したことを隠さざるをえない、本人が迷惑をかけたくないとの思いから、故郷に帰ることが出来ず、亡くなった後も実家のお墓に入ることが出来ない等から、多くの方が療養所内の納骨堂に眠っています。

ケベック外国宣教会は、松丘保養園近くの市営三内霊園に隣接した土地を購入して、市内信者のために三内カトリック墓地を造営した際、その一画を松丘教会信者に提供しました。1981(昭和56)年、松丘教会信者の共同墓碑を造り、今では77名の霊魂が安らかに眠っています。眼下に松丘教会を一望できるばかりでなく、桜の木をあちこちに植え芝生を敷いた居心地のよい場所で、青森市内の信者の皆さんは桜の咲く頃に墓地清掃とお花見をされます。

 ケベック会は戦後の1949(昭和24)年、同じカナダのドミニコ会から、青森県の司牧担当を移管されました。松丘と共に歩んだ神父様方を紹介します。

1950(昭和25)年ケベック会最初の主任となったフランシス・レフーベル神父は、助任アヒール・クルノエ神父と信仰共同体の基礎を作り、1951(昭和26)年に助任ルシエン・ボリュー神父と愛徳会の結成を導き、1957(昭和32)年には助任マルセル・クレポー神父と聖堂を建設されました。

1961(昭和36)年からボリュー神父が主任となり、助任ジル・ランドルービル神父と1963(昭和38)年伝道館を建設、助任イバン・ルメー神父と1964(昭和39)年オジリア会、1965(昭和40)年フランシスコ会第三会の結成を導かれました。

1967(昭和42)年にポール・ラベ神父、1971(昭和46)年にフローラン・ベンサン神父が主任となり、受洗者がふたたび相次ぐようになりました。

1978(昭和53)年から主任となったデュベ・ジル神父は、1980(昭和55)年ガスパリ大司教の来園、1981(昭和56)年の共同墓碑建立、1982(昭和57)年の宣教50年献堂25年記念式典に尽力されました。

1987(昭和62)年にラヴォア神父、そしてケベック会最後の主任となったのはランドルービル神父でした。

参考:滝田十和男「カトリック松丘教会の昔と今」、「星の丘~松丘カトリック教会宣教50周年献堂25周年記念誌」

 

花見

お別れパーティ

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「新生園教会の歩み」(1)

新生園教会の歩みは、1950年(昭和二十五年)五月、築館教会の大庭征露氏(築館教会創立の功労者・後に南山大学教授)が、園内の路上で布教したときに始まります。

大庭氏の話を聞いた有志五、六名が、各々親しくしている人をさそったところ三十名位あつまり、一週間後に、築館教会主任小野忠亮師が行って話し合い、カトリック研究会を発足しました。
初代会長金道優氏の部屋で週一回教理勉強がはじまり、会員も増えていきました。

十一月、小野師は石巻へ転任、貝沼保師と代わることになり、クリスマスの前に貝沼師と小野師によって二十数名が洗礼を受けました。この時の代父は、築館教会信徒の鈴木忠男氏(築館郵便局長)と坂本敏郎氏(築館病院院長)でした。

十二月二十五日、園内の宮城会館(ホール)に仮祭壇を設けてクリスマスのミサがささげられ、研究会を解消して「暁の星会」となり、宮城会館で月二回ミサをおこなうようになりました。

金道会長は朴訥な人柄で、平成3年に二代会長津島清氏に交代するまで、長い間、信徒の中心として活躍されました。

 1952年(昭和二十七年)四月、宮城会館で、浦川司教と元長崎教区長早坂司教の二人が、三十数名に堅信の秘蹟をさずけました。

九月頃から貝沼師は小野師と協力して、「カトリック新聞」「たいまつ」などを通じ募金を全国の信徒に呼びかける一方、県知事、県議、会社などを訪問して寄付募金をおこない、教区からの出資金を加えて、聖堂建設資金を集めました。

 1953年(昭和二十八年)四月から、暁の星会の会員は、他教団会員有志の応援を得て、自分たちの手で敷地整理作業をはじめ五月に終了し、聖堂建設に着手。

七月五日、浦川司教によって献堂式がおこなわれ、新聖堂は汚れなき聖母の御心に奉献されました。

参考「宮城県カトリック教会 百年のあゆみ」

 

聖堂

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「新生園教会の歩み」(2)

溝部司教様の永遠の安息をお祈りします。当委員会は2004年7月4日付教区報158号「仙台教区を去るにあたって」で溝部司教様が『人とのかかわりを信仰の目で見ることも強調しました。教会は単なる人間の集まりではないからです。これに関しては、最後に「人権を考える委員会」を発足までこぎつけたことを特に喜んでいます。教会は人権を大切にしなければなりません。人を傷つけて恬として恥じない、こんなことは教会には決してあってはならないことです。』と書かれた思いを受け継いで参ります。

 

さて、献堂から2年後の1955(昭和三十)年四月五日。矢本(現東松島市)にいたアメリカ進駐軍松島航空隊の米兵カトリック信徒有志の浄財九万九千円(当時)により大阪で作られたアンゼラスの鐘が、米軍のヘリコプターで矢本から空輸され、見物人がいっぱいの新生園グランドに着地。小林仙台司教によって祝別された後、聖堂にとりつけられ、平成8年頃まで朝昼晩お告げの鐘を毎日園内に響かせていました。

 明くる1956(昭和三十一)年六月、小林司教によって二十数名の信徒に堅信の秘蹟がさずけられ、翌七月司教のすすめでレジオ・マリエが結成され、十数名が会員となって活動を始めました。しかし1960(昭和三十五)年頃から病気が治癒して退園する者が出るようになり、暁の星会員(新生園教会信徒)の中からも十数名が退園し、レジオ・マリエも自然消滅してしまいました。

 東北新生園では、近隣農家の田植え稲刈りの手伝いをしたり、労働者として土木・建設業者に雇われ園まで送迎されたりと、隔離政策の下でも昭和三十年代以降は出入りがゆるやかになったようです。園内を公道が通り、周辺住民も生活道路として昔から自由に通行していた独特な事情もあり、司祭、修道者、信徒が新生園を出入りし共に祈ってきました。

 一方で、献堂後数年は、ミサを捧げる聖堂の中でも、職員等の信徒は台所勝手口から階段を上って二階で与り、聖体は一度外に出て香部屋に入り拝領するなど、玄関を出入りし一階で与る新生園信徒と離れていた時期もありました。

 

参考「宮城県カトリック教会百年のあゆみ」、新生園教会信徒のお話し

 

聖堂前にて

 

聖堂落成式終わって暁の星会会員一同

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